岡田さんへ
しばし間が空いてしまいました。熱がでたり収まったり、という状況とのことですが、その後調子はいかがでしょうか?
第三回復路、読ませていただきました。ケーキの写真、いいですね。当時のワクワクした感情まで伝わってくる気がします。
人と人との対話を生みだすような本を作ること。
それによって、自分自身とまわりの人たちが幸せになること。
岡田さんが会社を立ち上げ、HPが公開され、この〈みずき書林がやりたいこと〉を読んだとき、「とても岡田さんらしいな」と思いました。実際に、これまでの仕事ぶりをみていて、このやりたいことが実現できていることも伝わります。
映画に出資をしたかったという企ては、予想外の答えでした。スケールがでかい(笑)。岡田さんは大学時代、映画を作るサークルに入っていたんですよね。監督もやっていたとのことなので、出資者になったら、それだけに収まらず、プロデューサーの様に映画に関わっていきそうな気もします。
『マーシャル、父の戦場 ある日本兵の日記をめぐる歴史実践』が刊行された時期の岡田さんは、本当に楽しそうでした。もう時効だよね、ということで言いますが、前職を離れる前の岡田さんとは、呑むたびに愚痴を言い合っていました。そこで、鬱々とした表情で語る「社長であることの大変さ」も、散々きいていました。だから、この本が出た頃の岡田さんからは、そこから解放され、いま、自分がやりたいことができている、というのがストレートに伝わってきました。ドキュメンタリー映画『タリナイ』の上映会やトークイベントなどなど、本を作ること以外にも、いろいろなことに関わることの面白さも伝わってきたし、「僕もいつかそういうことをやりたい!」と思いながら、その様子を見ていました。当時作っていた『マーシャル、父の戦場』の特設ページも、すごい作り込まれていて、テンションの高さが伝わります。
マルクス・アウレリウス『自省録』の言葉を読んで、パッと浮かんだ言葉が、「メメント・モリ」でした。大学時代にアルバイトをしていた書店に、読書家のAさんという先輩がいました。文学が好きで、東西問わず、新旧問わず、いろいろな本の話ができる人でした。日本の近代文学、とくに私小説がお互い好きで、競うように、近松秋江、宇野浩二、葛西善蔵、嘉村磯多といった作家たちの小説を読んでは、感想を言いあっていた。毎年、その年のベスト本を呑みながら発表し合ったり。
その先輩は哲学書も好きで、彼に勧められて読んだのが、中島義道さんの『哲学の教科書』という本でした。これが、僕が哲学書を読むようになったきっかけだった。いま自宅の本棚を探しても出てこなかったので、Webで読める範囲と記憶で書きます(そういえばこの本、弟にあげたことを思い出した。果たして読んでくれたのだろうか……)。
この本の第一章は、「死を忘れるな!(Memento Mori!)」です。講談社のHPで読める立ち読みの範囲からの引用ですが、
すべての人は死にます。それも、「いつ」とわかっているわけではなく、明日死ぬ人も世界中に何十万人といることでしょう。ほとんどの人は、それを知らずに、今晩寝床につきます。これは考えるほど大変なことです。
そして、「死」はまた哲学にとっても最大の問題であったと言えましょう。西洋に限っても、プラトンにとって哲学とは「死の練習」でした。
著者の中島さんはハイデガーがご専門なので、続けてこのようにも。
彼[ハイデガー]は、人間存在を「死への存在(Sein Zum Tode)」とみなしました。この「死への(Zum Tode)」というのは、「いつかは必ず死ぬ」という意味ではなく「つねにすでに死にかかわっている」という意味なのですが、とにかくそのことをしっかりと自覚することが「本来的な」生き方だというようなことを言っております。
大学生の頃にこれらの文章に触れて以来、呪文のような「メメント・モリ」という言葉を覚えました。これをきっかけに、ハンス・ホルバインの『大使たち』ほか、「ダンス・マカブル(死の舞踏)」や「ヴァニタス」と呼ばれる絵画にも興味を持ったりしたり。
自分が永遠に生き続ける存在ではない、と意識するだけで、謙虚さであったり、自分以外のことを考えることにつながるのかなと思います。永遠ではなく有限だからこそ、その限られた時間で何をするのか、どう生きるのか、を考えることにもつながっていく(ハイデガーや中島さんが意図している通りに理解、実践できているのかはともかく)。
でもね、こういった言葉や作品に触れることと、いざ死が身近になったときの心持ちは全く違うのだ、ということを、いま痛感させられています。「つねに死にかかわっている」存在だと頭では理解していても、止まらない日々の中で、いつも通りの日常を生きている。どうしても、それを忘れてしまう。岡田さんが病気になって、一気に「死」を身近に感じるようになった、というのが正直なところです。
荻田泰永さんとのクロストークは、僕も会場で話を聞いていました。岡田さんが病気になって間もない頃で、僕もまだ、その状況をどのように受け止めれば良いかわからず、ただただ困惑をしていました。いてもたってもいられずイベントに参加をしましたが、そこにいた岡田さんはいつもの岡田さんで、むしろ「心配するな」と慰められたような気持になったことを覚えています。その時に、岡田さんが「理性的でありたい」と言っていたことも。
もしいま、自分が病いになり、日常がガラッと変わってしまったとき、僕は理性的でいられるのだろうか。それは、正直、自信がありません。すべてを投げ出して、どこか遠くに行ってしまいたくなるかもしれない。自暴自棄になって、吞んだくれたりする姿の方が、想像しやすい。
でも、岡田さんは「理性的でありたい」と言う。自分を律して、周りの人に対して丁寧でいたい、と。それは言葉以上に、ハードなことだと思います。だけど、そうありたい、というところもまた、「岡田さんらしいな」とも思うのです。
ある種のダンディズムとプライド、もある気がしますが、それ以上に、まず「周りの人たち」のことを考えるところに、岡田さんらしさを感じる。それは「優しさ」というよりも、生き方の問題と言うか、習性にも近いのではとも思っています。そうやって生きてきた、だから、それを変えることはしたくない、というような。そして、そのために、肉体的な苦痛と、精神的な未練を克服しようとトライしている。
僕にできる協力、手助けはしたい。けど、そのトライの根本的なところは、他者が和らげたり、手助けできるものではないとも思います。そのことに無力感を覚えつつも、引き続き連絡を取り合ったり、仕事をしたり、愚痴をこぼしあえればいいなと思っています。
さて、僕はいま、何を克服しようとしているんだろう。
ひとつ浮かぶのは、何かをはじめるとき、「躊躇しないこと」かもしれません。会社を立ち上げる、という話を岡田さんにしていたときに、「まずはやってみることが大事」と言われたことが強く印象に残っています。何かアイデアが浮かんだ時、何か相談されたとき、それをやりたいと自分が思えば、躊躇はしないこと。僕はともすると、尻込みしがちです。あれやこれや考えすぎて、うまくいかなかったこともある。だけど、まずはやる、と決める。そして、それがどうすればやれるのか、を考えてみる。そう、意識するようになりました。
本を売って食っていくしかない、という覚悟はできています。ただ、今後具体的にどんなサイクルで、本を作る、お金を得る、という流れになっていくのかがわからない不安はあります。これはもう、やりながら「こうなるのか!」を実感していくしかない。
もうひとつ、克服したいことを挙げれば、「寂しさ」かもしれません。会社を始める前から、いろいろな人にあって、相談をしていました。始めた、とアナウンスをしてからも、いろいろな方が声をかけてくださいました。いま望外ともいえるイベントの準備も進めていたりもします。そうやって、いろいろな方と会って、いろいろな話が進む中で、楽しい時間を過ごすこともできています。なので、「寂しい」だなんて贅沢な、とも自分で思います。
でも、たまに、ちょっとだけ、仕事の話を共有できる「同僚」がいないことが、寂しくなることがあります。ひとりでやる、というのはそういうことなのだとは思いつつ、良いことがあった、悪いことがあった時に、その話を雑談レベルで話せないというのが、少しだけ、寂しかったりします。
転職した時も同じようなことをぼやいて、何を言ってるんだと言われましたね。寂しがり屋なつもりはあまりないのですが、岡田さんはじめ、同僚たちと一緒に何かやる、という楽しさを、勉誠時代に味わってしまったからだと思います笑
前回のBGMだったキング・クリムゾン、実はちゃんと聴いたことがないのです。いわゆるハード・ロックやプログレ界隈は、ほとんど手を出したことがないジャンルです。ピンク・フロイドもちゃんと聴いたことがない。嫌いなわけではなくて、ハマる機会がないままにいまにいたってしまった。
その辺りで好きなもの、で浮かんだのが、Deep Purpleの曲をカバーした、クリスピアン・ミルズ率いるKula Shaker。いまも活動中で、週明けの月曜からは来日公演もあるようです。活動歴もそろそろ30年…… 時間が経つのが早い。
1stアルバムも良いのですが、2枚目の『Peasants, Pigs and Astronauts』も好きです。この「Hush」のカバーは、テンションを上げたいときにいまもよく聴いています。
今回の写真は、長年お世話になっているS先生にお贈りいただいたもの。ありがとうございます。こういうものひとつひとつが励みになります。しっかりやらねばと気合も入る、背筋も伸びる。岡田さんのケーキの写真のように、僕もこういった写真を見るたびに、いまこの時期を思い出すのだろうな。